ぼさぼさの髪

またも半年近く髪を切りにいっていない。ぼさぼさだけどくせっ毛なんで、これはこれでオーケーかもしれん、オーケーですよということにしています。まえはよこっ毛がはねてきて魔美リーマンになっていたけれど、いまはそれを超えてジャド・フェアのようだと妻にいわれた。ジャドリーマンである。
でも髪の毛ぼさぼさの人っていますよね。金田一耕助とかウディ・アレンとか。なんかモテなさそうだけど、とりあえず存在感はあるかんじ。あの系譜はいったいなんなのだろう、ぼさぼさ頭にもどこかしら魅力が?と考えていて、ふと赤瀬川原平の「千利休 無言の前衛」の一文を思い出した。トマソン物件など路上観察にいそしんでいた赤瀬川さんたちが、(なぜこんなにおもしろいんだろう……)と話し合っていたときにぽろりと出たことばが、「ひょっとして、むかし、歪んだり欠けたりした茶碗をさ、利休たちが“いい”なんて言いだした気持ちと、同じなんじゃないのかな」。えーとこれを敷衍するとつまり、ぼさぼさの頭は茶碗の歪みであり、侘び寂びなのである。
このものの見方というのはわりと便利で、なんでもカタがつくような気になる。ハーフ・ジャパニーズの音楽だって茶碗の歪みだ。紐つくりからはじまってろくろが導入され、なんとかシンメトリーできれいな器ができるようになってきたねー、というところでグニャて茶碗をひねる。それがなんかいい。話を大きくしてしまえば、ポストモダンのポストも茶碗の歪みといえよう。
ただこの応用ばかりしてると、わりと行き詰まりやすい。だって歪みがあるかないかの、ふたつにひとつしかなくなっちゃうし、きれいな状態に到達してからグニャてひねったのか、まだきれいに到達するまえのグニャていう状態なのかわかりにくいし。いやじっさい、私小説ってちょうポストモダン!とか、ようわからん解釈あったりしたじゃないですか。
かりにそうやって時代は裏と表のいったりきたりだとしても、メビウスの輪のようにおなじとこをぐるぐる回ってるだけじゃなくて、常になにかしら変化は起こりつづけているのです。とても小さい変化だとしても。これ僕の信念というか賭け金といってもよい。しかしこの信念を髪の話に戻して当てはめると、坊主頭とジャドリーマンを繰り返しているように見えていても、いつしかなめらかにゲーハーになっていくということになるのかもしれなくて、それはちょっと困ります。

千利休―無言の前衛 (岩波新書)

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