河内に思いをはせた月曜日

恵文社一乗寺店にあたらしくできた生活館に行こうよ、それからついでに錦市場にも寄りたいな、と妻がいっていたので京都に行くつもりだったんだけど、よく考えると今日は祇園祭山鉾巡行じゃないかと気づいて急遽とりやめ。雨もふっていることだし、家でのんびり過ごすことにする。
昼前になって、Porta Nuovaにピザ食べにいこうぜって、ひとけのない靱公園を歩く。ブランジュリ タケウチが営業していて、ちょうど家のパンがなくなるころなので寄って買っていく。めずらしくお客さんがすくなめで、パンの種類もいっぱいあったよ。Porta Nuovaでは、ピザ・マルゲリータとスパゲティ・カルボナーラ。どちらもシンプルで力強いおいしさ。
家に帰って、川村二郎の「河内幻視行」(トレヴィル)を読む。大阪芸大に講義にきていた著者が、河内周辺の寺社めぐりをもとに書いた紀行文。

そしてこの通法寺址からまた少し南、葡萄山へうっかりすると迷いこんでしまう曲り道の、右手の丘の薮に刻みこまれた、道といえるのかどうか分らない蛇行する溝状の凹みを、疑いながら、滑らぬよう気をつけながら登って行くと、息切れするほどになって明るくなり、ひらけた平坦地に出る。

こういう文章は好きだな。カメラの移動と、足の裏から伝わってくる地面の感覚と、足を進める気持ちが一体になって、定められた場所に向かうような文章。内容的には、神社の建築様式についてうっとり書き連ねる川村さんの古社オタクぶりにちょっとひく部分もあるのですが、逆に古代史のあれこれに仮説を立ててみることには無関心な姿勢が好感度高い。河内の魅力がどこにあるかというと中途半端さにあるという指摘もおもしろいよね。地理的にいえば大和、摂津、京都に囲まれながらも歴史の主役として登場することのなかった土地。都を前にすれば鄙、しかし鄙に引きくらべればよほど都ぶり。そして時代的には河内の寺社は桃山期造営のものが多くて、これも室町期までの素朴典雅なものと、江戸期の豪奢なものの中間的なものと位置づけることができる。
ここんとこは説明しにくいんだけど、都でも鄙でもなければ何なんだ、あるいは素朴典雅でも豪奢でもなければ何なんだ?と問われたときに「それは河内である」という具体名で答えられる、と考えればおもしろさがわかってもらえるのではと。観念的な二項対立に対するオルタナティブとして現れる中間実体、なんていうと逆につまんなくなっちゃうかもしれないけど、ま、そういうことで。
さて、三連休も終わりかあ。ゆっくり風呂につかってこようっと。