ひさしぶりに晴れた土曜

休日出勤。16時過ぎに会社を出て淀屋橋のタリーズコーヒーに行ったら、声のでかいおばちゃんが見ず知らずの客を相手に血液型占いと動物占いについてずっと喋っていた。あたしコアラやねん、ガハハハハハ。帰宅して、黒鯛の香草焼き、蟹と米のスフレを妻が作ってくれたので酒を飲みながら食べた。おいしくてお腹いっぱい。
宮本又次の「随想大阪繁盛録」(文献出版)には、そこで生まれ育った著者が堀江について覚え書きのようないろいろを書き留めた章があるんだけど、土佐稲荷について書かれているあたりのこんな一節に目がとまった。

慶応四年二月、土佐藩士箕浦猪之吉以下が泉州堺浦で仏国人を殺害した件で切腹を命ぜられたが、その数が二十人に限られたので。この土佐稲荷の社頭で、クジを引いて、その人を定め、徹宵痛飲して、翌朝堺のソテツの寺、妙国寺に護送され、壮絶な切腹をとげた。

あーそうか、大岡昇平の「堺港攘夷始末」に書かれていたあの場面ていうのは、土佐稲荷でのできごとだったんだ。大阪で暮らしはじめるまえに読んだ小説が、こんなふうに身近な場所につながるとちょっと興奮しますね。本棚からとりだした「堺港攘夷始末」をパラパラとめくりはじめる。
歴史小説のありかたについて論を投げかけてきた大岡さんが、森鴎外の「堺事件」についても批判を加え、その結果として同じ題材を扱って生まれたのが「堺港攘夷始末」であることはよく知られている。本人の歴史小説に関する弁を用いるなら、大岡さんがこの小説で書こうとしたのは、歴史のなかの庶民のいつわりのない等身大の姿であり、時代のイデオローグに左右されることのない公平な歴史記述を試みることだったという。僕がそんな経緯を知ったとき(それはまだ小説を読む前だったというのが何ともアレではあるけど)、イデオローグに左右されることのない歴史意識を持つことなんてできんのかよ、なんてことをまず思ったおぼえがある。
ふふ、こういうのってこどもの浅薄な政治意識ともいえるかもしれないけど、べつにいまでもそのとらえかたはまちがってなかったとも思うんだな。正確には、大岡さんはこう書くべきだったのだ。公平な歴史記述を試みようとすればするほど、小説はおもしろくなっていくと。「堺港攘夷始末」、それから「レイテ戦記」や「天誅組」なんかの大岡さんの歴史小説が、時代が変わっても評価されつづけていくとしたら、それはけっして歴史観のためではなく、その結果としてたどりついた小説におけるミニマリズムの到達点としてだろうから。