いつのまにか9月の日曜日

偶然たどりついたその日記は、何年も前に読んでいたことがある個人サイトを作っていた人が書いているらしかった。べつに交流もなにもあったわけじゃないけれど、へえーとすこしばかり懐かしく、なんだ結局はてなダイアリー使うんだなといささか可笑しくもあったのでした。しばらく自分の日記を放置していたんだけど、そんな風に読んだ日記のおかげでひさしぶりに書いてみる気が起きたよ。投壜通信っていうのは浅田さんがよく使う例えだけど、僕もつとめてさりげなく壜をウェブの海に投げ込んでみましょう。こんばんは。
日記を更新していなかったのは、先月はじめに妻が妊娠したことがわかってから、まあ不安定な時期だしまだそういうこと書くのもなと思ってたんだけど、そうするとそれ以上に書くことなんてのも特にないわけで、そのまま放置していたっていうのもある。というわけで再開にあたってまずはご報告まで。幸い今のところ順調に経過しています。妻はつわりのために半分廃人と化していますが。
前回の日記で購入したことを書いた藤枝静男さんの「小感軽談」(筑摩書房)が滅法おもしろい。藤枝さんの小説のスゴさは承知しているけれど、随筆にこんなに心を撃ち抜かれるとは予想しておらず、うれしい誤算。すこし長くなるけれど「日野市大谷古墓出土蔵骨器」という一篇から引用してみよう。

 中世の骨壺はほとんど例外なしに、と云って悪ければ大部分は口が欠けている。なかには底に植木鉢のような穴があけられているのもある。一種のタブーで完全なものを忌むという習慣からだといわれている。私も自分の経験でそのように決めていたところ、十数年まえだったか上野の国立博物館表慶館で完全な古瀬戸瓶子が「骨蔵器」として陳列されているのを見て驚ろいて、こういう例外みたいなものもあるのかと教えられたことがあった。しかしその後また思い返して「あの瓶子も底には穴があけられていたのかも知れない」などと考えていたから、今度のような写真撮影と紹介記事という特権的機会を現物を手にとってひねくりまわせる唯一の好機と昂奮したのであった。いつでも硝子戸に額をおしつけて眺めてばかりいるという身分は情けない。しかし通でも学者でもないのだから仕方がない。

陶器をまえにした凡人の心の揺れをあますところなく描いていて超共感。小説における骨まで漂白されきったようなユーモラスな幻想世界とは打ってかわって、俗念を隠すことのない藤枝さんは、奈良の茶屋で見せられた藤原仏が欲しくて欲しくてたまらず譲ってもらったものの宿の床につくと、あれは室町期のものかもしれなかったなあと弱気な後悔をはじめたり(「阿弥陀如来下向す」)、古そうな木像の半跏地蔵菩薩を買ったものの、家に持ち帰ると予想外に大きくて半跏なものだからとりあえず植木台に座らせると奥さんに気味悪がられて、玄関の下駄箱に座らせたら邪魔もの扱いをされるのでやむなく上に寝転がせておいたら来客ごとに「グロですなあ」といわれてイヤになってきたり(「偽仏真仏」)、世に数ある骨董失敗エピソードのなかでも群を抜いた情けなさを発揮している。もちろんそれだけじゃなく、いっぽん筋の通った鑑賞・蒐集眼があるから安心して読んでいられるわけだけど。
読んでいるうちに矢も盾もたまらなくなってきて、そそくさと家の掃除をすませ、つわりで臥せっている妻にはクリーニング受け取りついでにちょっとぶらぶらしてくるわと告げて、一目散に梅田の古書のまちへ向かう。加藤京文堂で藤枝さんの「今ここ」(講談社)、ついでに余計なものも何冊か買ってしまって散財。ううむ、来年生まれてくる子どものために絵本もいろいろ買っておきたいなあと考えていたばかりなのに。まあそれも気が早いか。