日曜の朝はスクーターの手入れを

スクーターのオイル交換をした。ドレンボルトを緩めて、漏れ出てくる黒く汚れたオイルをビニール袋で受けて、ぽたり、ぽたりとしずくが落ち終わるのをのんびり待つ。ドレンボルトをトルクレンチで締め直す。カタ、カタ、カチリ。そしてうすいハチミツ色の新しいオイルを入れて、量を確認してエンジンをすこし回して、もいっかいオイル量を確認して終わり。オイル交換をじぶんでするのは、たしかにショップでやってもらうより安上がりだからっていうのもあるけれど、なによりその作業が楽しいからに尽きると思うんだけど、どうでしょう?
ボルトを締めたり緩めたりといった作業がなぜ気持ちいいのか、説明するのはなかなか難しい。なにかを確実に進行させているという目的論的な達成感だけではなくて、手作業じたいに神経が吸い込まれるような気持ちよさが含まれているから。この作業を漢字ひともじで表すとすれば弄ぶということばがぴったりくるように、なにかしらそこには性的な要素もふくまれるような気もする。おにゃのこのねじを締めて緩めて、と書いたらそれだけでなんかの隠喩に思えてしまうようにね。
でもよく考えると、そもそもねじという発明じたいが僕らの身体感覚に深く基づいたところで行われたような気がしないでもない。いや、あのね、ヘンな話ばっかで申し訳ないのだけど、水道の蛇口ってなんでああいう形になってるか疑問に思ったことはないですか? ああいう形っていうのはつまり、男性性器を連想させるような形状や角度(非勃起時)っていうことなんだけど、たんに水を排出するという目的だけだったら、なんかもうちょっと違う形がありえたんじゃないのかと。機能的にこれしかありえないというところで蛇口と男性性器の形態にある種の一致がみられたのか、それともなんか想像力の限界として身体感覚から逃れられないという制限があってああいう形になってしまったのか。後者だとしたら、そもそもねじに性的な快感を見い出すというのもあたりまえというか本末転倒な気もするよなあ。
なんてなことをオイル交換をしながら考えていたわけですが、セックスのときにこんなよそごとを考えていると相手に怒られてしまうけれど、バイクは怒んないという点が異なる、というのが結論です。