ユーモア感覚にあふれた見事な巨乳の持ち主

12月21日の報知スポーツに載ってた岸田今日子さんへの追悼コラムがひどすぎる件について。

「ユーモア感覚にあふれた見事な巨乳の持ち主」
岸田今日子さんの最初の強烈な思い出は巨大なオッパイだ。1960年の文学座公演「サロメ」は三島由紀夫初演出で、岸田さんのサロメが予言者ヨハネ(元夫の仲谷昇氏)の首を所望して、胸をはだけるとボロンと豊かな両胸が飛び出した。見事な巨乳だった。岸田さんは「サロメ」の「人は愛だけを考えておらねばならぬのじゃ」というせりふを生涯愛していたが、私の頭には「人は巨乳だけを考えているものだ」ということが焼きついた。(後略)
 安達英一(演劇評論家)

ひどいでしょう? 亡くなったばかりの人に、巨乳!巨乳!ですよ? ちなみに引用部分のあとには、後年岸田さん本人に「サロメのときはやっぱり乳首にはスパンコールとか貼ってたんですか?」と訊ねて呆れられるエピソードもある。僕もちょっとこれは失礼なんじゃないかと思ったな。でもね、よくよく考えてみると、これはこれでアリなんじゃないかなあって気にもなってきた。安達英一さん(名前聞いたことないけど)は40年以上にわたって、岸田さん=巨乳という等式を頭のなかに温めてきたわけです。そのあげく、追悼の際に一般的に期待されることがらをさしおいて「巨乳!巨乳!」と叫びたてるわけで、この空気の読めなさには積極的な意味を見出したいと僕は思う。
じっさい岸田さん巨乳説はまったく盲点だった。僕がものごころついたころには岸田さんは結構なトシになってたから、そういうところには着目するわけもなかったし、その後「砂の女」などを観たときにも完全におっぱい方面はスルーしてた。それにアレだ。近年は岸田さんの位置づけっていうと、川本喜八郎だの、ムーミンだの、ややもすると文化系女子な方面が強調される傾向にあったといえよう。安達さんのコラムは、そういうせまい世界に岸田さんを押し込めるっていうのは、ちょっとちがうんじゃねーかなー?という異議提出ととらえたい。だって巨乳だったんだぜ!って。
岸田さんは亡くなってしまったけれど、このコラムのおかげで新たな魅力の可能性に気づくことができたともいえよう。岸田さんが出演した映画を観る機会があったら、こんどはおっぱいにも十分注意を払うことにしたい。あと、文化系女子と巨乳がややもすれば相反しがちな概念であるというのが古い歴史観だという指摘があれば、げんしゅくに受け止めて反省したい。しかし、文化的でありながら、そのうえおっぱいが大きいとは、なんとおそろしいことだろう。