「五足の靴」

明治40年夏、西暦でいえば1907年にあたるからちょうどいまから100年前ってことになるんだけど、与謝野鉄幹は当時「明星」に集っていた同人である北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野萬里とともに、九州への旅におもむいた。この旅のようすは五人がどの文章を担当したかわからないスタイルで書かれ、「五足の靴」というしゃれたタイトルをつけて東京二六新聞に連載された。
このとき鉄幹は34歳、ほかの4人にいたっては20歳をすこし過ぎたばかりの若者たちである。したがって旅もまさに学生ノリ。いや、じっさい学生だったんだから当然ですけど。酒、ハイク、戯れの歌。そもそも白秋、杢太郎、吉井の3人は帰京後まもなくして「鉄幹さんちょっと古くねwww」と「明星」の母体である新詩社を脱退し、パンの会の結成にかかわるわけであるが、そこでこの人たちのやったことといえば、隅田川をセーヌ川に見たてて河畔の西洋料理店でカフェごっこという、妄想系オリーブ少女生活である。この旅でも、「南蛮ヤバいよね」「ヤバス」と長崎・島原の南蛮文化にエキゾチック浮かれモード。
そんなふうに多少気恥ずかしく感じられる旅ではあるけれど、そもそも僕には浪漫主義の類を避ける読書傾向があるので、思ってたよりはずいぶん楽しめたというのも本当のところです。灼けた砂浜、夕暮れの山あい、荒れた海、樹々にかこまれた茶屋。九州のまぶしい自然が浮かんできて、旅のきぶんを伝える紀行文としては魅力的です。
で、ここからは余談なんですけど、明治末期においては外国に対するエキゾチシズムというのはことばの意味そのままのエキゾチシズムにとどまっていたんではないのかなあというふうなことを考えた。東洋西洋にかかわらず。負の意味をともなう思い入れ過剰な視線は、国内に向けられたものだったんじゃないか。ほぼ同時期に新体詩から民俗学の方向へと舵をきった柳田國男についていえば、のちの南島へのこだわりが植民地主義をからめて批判されることはあっても、「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と檄をとばした「遠野物語」はそういう文脈で語られてきてないんじゃないのか。たとえば初期谷崎潤一郎支那趣味をオリエンタリズムという概念に当てはめるような風紀委員的態度よりは、日本列島内のそういった断層を明らかにしていくことのほうが、だんぜんおもしろいと思うんだけどな。

五足の靴 (岩波文庫)

五足の靴 (岩波文庫)