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江戸期の大坂

なぜ大塩平八郎かというと、たんに家からほど近くに大塩さんが亡くなったとされる場所があるからです。関係ないけど、尊敬する人物が大塩平八郎チェ・ゲバラって、亀井静香さんてわりと変わったひとですよね。
僕は自分が暮らす町の昔のことを知りたいと思うタイプの人間で、特に大阪に暮らすようになってからは江戸期のことが気になっている。東京に住んでいたときは明治期、京都に住んでいたときは室町期のことが気になっていたんですけど、それはその町の性格が決定された時期がそのころなんじゃないかと、暮らすうちにうっすら感じられてきたからだと思う。そんで大阪は江戸期なんである。まあ、そんな硬い話じゃなくて、そのころの人々は何を楽しみに暮らしていたのだろう、何を好んで食べていたのだろう、何を怖がって生きていたのだろう、とかそういう興味の話なんですけどね。
「近世大坂風聞集―至亭文記・あすならふ・あすならふ拾遺」(大阪市史編纂所)という本には、明和四年(1767年)に心中が大流行していたことが記されている。梅田あたりでは毎晩のように心中が起こるので、夜中に番人を置いたところ、やっぱり夜ごと2〜3組の男女がうろうろしてるので追っ払っていたそうである。これを心中追払番と名を付けたりしもおかしけれ。わっはっは。僕もそんな仕事してみたいような気もしますけど、いまから考えると心中が大流行ってよくわかんないよねえ。近松門左衛門が書いた「曽根崎心中」が初演されたのは元禄十六年(1703年)、それから60年以上経ってもブームが収まっていないわけである。
それよりさらにわからないのは、幕府がこの流行を重く見て、心中物の上演を禁止したり、心中死した人たちの葬儀は罷りならんと云ったり、なんとかして心中ブームに歯止めをかけようとしたことである。心中追払番もその一環。でもねえ、ほっとけばいいじゃない、そんなの。「あー、あの最近の心中っていうのはまずいんじゃないの?」「捨て置くわけにはまいりませんわなあ」「このままでは日本経済の競争力にも影響が……」、ってそのころは鎖国中ですね。生産力がどうこうというよりは人心に対する影響力を重く見て、なんかしら幕藩体制に瑕疵をもたらしかねないブームだっていうことだったのかなあ。
300年経った現代から見るとかなりヒマな人々のように思えますけど、まあ、そのあたりは時代が変わればリアルには感じられにくいものかもしれない。現代だって、引きこもりやニート対策に真剣になっちゃったりして、そこらへんの財政費用もうんとかけられているわけですが(ジョブカフェとかまだあんのか)、300年後の世界から見れば「ほっとけばいいじゃんwww」という噴飯物の努力なのかもしれないしねー。
「至亭文記」の心中記事に話を戻すと、ある心中事件では、二人のなきがらを通例によってさらしていたところ、夜中になったら裸のまますくっと立ち上がって、「ついたとさー」と男が大声をあげて踊りはじめれば、女も「ついたとさー」と大声でこたえて、二人で余念なく踊りつづけるという出来事があったそうなんですが、結論としては、あのへん狐が多いから化かされたんだろうねってことで、そのロジックはおかしいけど便利だ。なんかおかしなことがあっても、狐のせいにできたら、精神衛生上すごくよい解決方法だと思う。