一日が終わり、まだ目を覚ましていること

持ち帰った仕事はきりがついたのかどうか、ダイニングテーブルの照明を消して、こうしてPCに向かっています。
娘はとなりの和室でとっくに眠りこけたままだし、妻もついさっき寝室へと入っていったところ。妻が会社に復帰してから最近は、ともだおれを避けるために平日は娘と眠るのを交代にして、ひとりはべつの寝室で眠ることが多いのです。そんで今日は僕の番。半分ほど開けたベランダに通じる窓からは、ときどき前の道路を通る自動車の音や、酔っぱらってさわぐ歩行者(まだ日付が変わるまえだもんな)の声が聞こえるだけの静けさで、流れこんでくる外気はすこし肌寒いくらい。
眠っている人の傍で目を覚ましていることには、どうしてこれほどのやすらぎがあるのでしょうか。べつに傍で寝ているのが娘だからといって父性愛のようなものがじゅんじゅんと発露しているというわけではなく、ずいぶんむかしから、たとえばだれかの部屋に集まってさわいで、そのうちみんな眠りに落ちていくなか、ひとりなんとなく目が冴えてしまって残った酒を口に運びながら、部屋主了解ずみで本棚をあさって、でもきちんと本を読むほどにはうまく頭が働かず、読んだことのあるマンガを見つけてゆっくりと読み直したり、なんてそんな瞬間のことを手に取るように思い浮かべられるのは、やっぱり流れこんでくる6月の夜の匂いのせいかもしれません。
よしなしごとを書いているうちに日付も変わってしまって、そろそろ寝る準備をしないと明日にさしつかえそうです。まあ、早めに寝たからって、とちゅうで娘に起こされる可能性は高いんですけど。このごろはあまり夜泣きはしないんだけど、3時や4時や5時にごそごそしはじめることがよくあるのです。そんで絵本を持ってきて「うぅー(読め)」って云うのね。聞こえないふりをして目をつぶって眠りに戻ろうとすると、本の角でがんがん頭を小突くという乱暴な娘に育ちました。ああ娘よ、眠る人の傍で目を覚ましていることのやすらぎを、きみも早く学ぶがよい。