幕末のまんじゅう譚

どこか遠くに出かけるときは、なにかよいお菓子はないかしらんと、「日本名菓辞典」(守安正、東京堂出版、1971)を眺めてみます。このまえの養老行きのときも大垣の金蝶饅頭というのが気になったけれど、インターチェンジと逆方向だったので、足をのばすのはやめたのでした。
しかし、この金蝶饅頭についての文章がどうにも解釈しがたく、謎めきすぎているので、皆さんにも味わっていただきたい。長いですけど引用します。

大垣市の名物。金蝶堂本店の製品である。名物酒饅頭「金蝶饅頭」が生まれたのは文久二年(1862)のことであった。初代吉田寿江子は彦根藩奥勤めをしていたが、万延元年(1860)井伊大老が桜田門外で暗殺されたのを機会に宿下がりしてクギ職人と結婚し、戸田十万石の大垣城下に移った。諸国行商の夫の留守中、寿江子はひまに覚えた饅頭をつくり、茶屋がけをして生活を立てていたが、ある日寄った戸田藩の家老小原鉄心文久元年の観梅の宴に、わざわざ寿江子を自分の別邸無可有荘に招くほどの入れ込みようであった。鉄心は寿江子の起ち居身のこなしから、ただの町人の女房でないことを見抜いたのである。そして、天下国家を見つめながら見事立派な饅頭を作ってはどうかと誘いをかけた。時は幕末の尊皇佐幕いずれをとるか沸とうしていた。どうしてこの動乱期を乗り切ってゆくか。戸田十万石の運命を握る鉄心も饅頭屋寿江子を使った。鉄心の謎に応じた寿江子の饅頭修行は、彦根であり、長浜であり、京都であった。文久二年(1862)、会津藩松平容保京都守護職となった。新撰組が組織された。そのあわただしい動きの中で、甘酒と粉の合わせ方、餡のふくめ方を会得した彼女は、芳醇な白い酒饅頭の白い皮のところどころに餡をすかし見せた創作を鉄心にひろうしたのである。鉄心は寿江子の功をたたえて黄金造り、揚げ羽蝶のかんざしを贈った。戸田藩論は尊皇に統一された。その藩の功労者寿江子につながる暖簾が金蝶堂四代目である。

  • 鉄心と寿江子はできていたのか?
  • 天下国家を見つめながら饅頭作れって、そんな謎によく寿江子はぴーんときたな。
  • 松平容保も新撰組もあんまり関係ないんじゃ……。
  • 謎に応じたってのはつまり密偵かなんかやってたってことですよね。だのになんで本気で創作饅頭作ってるんだ?
  • 功をたたえてって、鉄心もそれでよかったのか?
  • それとも、「ところどころに餡をすかし見せた」というのが時局のなんらかの暗喩だったのか?
  • 戸田藩論が尊皇に統一されたのも饅頭のおかげなのか?
  • クギ職人の旦那のゆくえは?

こういう、なにが云いたいのかよくわからない文章はだいすきです。

日本名菓辞典 (1971年)

日本名菓辞典 (1971年)