子どもの名前

妻のおなかの中にいる子どもに向かって、夫婦ふたりしてその場その場で適当な名前で呼んでいる。これでは中の人も混乱するであろう、と早いうちに名前を考えねばなという気になってきた(まだ男女どちらかもわかんないけどさ)。そいで書店の名付け本のコーナーに行ってみたんだけど、予想以上にヒドい類の本しかなく、ネットで常用漢字と人名漢字の一覧を探して、それを前にうんうん考えているところなのである。
子どもの名付けにまつわる小説といえば、大岡昇平の「萌野」が思い浮かぶ。ちょっといじわるな言い方をすれば、大岡さんは「成城だより」に見られるような明晰な読者っぷりにくらべると小説の実作はちょっと……てなふうに感じる人もいるかもしれない。まあ贔屓目にみてもたしかに失敗作は多い。だけど「萌野」は、ことばに対する鋭い意識を根底に、長男夫婦と生まれてくる孫に対する愛情や戸惑いといった大岡さんの率直な感情が、異境であるニューヨークを舞台にスケッチのような筆致で破綻することなくまとめられていて、短編ながら「俘虜記」や「野火」よりもこれを大岡さんのフェイバリット・ピースに挙げる人も多いはず。
小説のなかで大岡さんは、moyaという響きはいかにも重い、そもそも「萌+野」でmoyaと読ませるのは日本語としておかしいという。すげえきびしい。しかし長男夫婦は夫婦で、ふたりの思い出であるロンドンの靄(もや)の音から名付けたいわけで、頑として萌野を推す。そもそも俺の名前だって貞一って「ていいち」か「さだかず」かわかんないじゃん! そんな適当な名前つけといて、孫の名前にやたら口出しすんなよ! と、ここにいたって大岡さんがブチぎれて、そんなへんな名前の子は俺の孫じゃねえ発言が飛び出すわけである。
なんか記憶を頼りに書いてたら、老作家の感動的な短編というより「渡る世間は鬼ばかり」みたいな話になってきて申し訳ない。ほんと素敵な小説なので実際に読まれることをお勧めします。新刊だと全集しか入手できないみたいだけど、表題の単行本も文庫も古本で千円以内でふつうに見つけられます。
しかし萌野ちゃんてかわいい名前じゃんね。僕も昨今のいわゆるDQNくさい名前の氾濫には呆れていたクチだけど、なんかじぶんが名付ける側になったらそういうのも守備範囲かもしれんと思いはじめてきましたよ。ふしぎだ。

大岡昇平全集〈11〉小説10

大岡昇平全集〈11〉小説10