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理想の女の子

いなかの町で育ったこどものご多分にもれず、僕もまわりに音楽や小説のことを話せる人はあまりいなかった。べつにそのことで孤独を感じるときはなかったけれども(むしろ図書館や映画館でひとりで過ごす時間なんて心地よいにきまってる)、まあ、なにかしらの欠乏感を抱えていたのは確かなんだろうと思う。大学に入って最初の語学の授業の前に、本を読んでいた同級生に声をかけたときのことはいまでも憶えている。「ケルアックすきなの?」。笑わば笑え! 残念なのは、声をかけた相手は男の子で、そこから映画のように恋は生まれなかったことですけど。
そういった欠乏感と、恋愛感情とがごちゃまぜになってしまうというのは、おもしろいことだなと思う。男の子たちは、夢に出てきた理想の女の子について語り合う。カポーティエリス・レジーナがすきな女の子。川島雄三について「幕末太陽傳」のほかにも話のできる女の子。あそびに行って本棚にサンリオSF文庫が何冊か並んでたらもう好感度30%アップ。もちろんル=グウィンはすきだけど、どちらかっていうとティプトリー Jr.なんていわれたらそれだけでつきあう! そのうち、本屋でバイトとか、めがねとか、そういう属性まで含まれてきて、話は「ぼくのかんがえたさいきょうのぎゃるげーきゃら」大会の様相を呈するのである。
女の子がそういうことを考えていたのかどうかはよく知らない。よく知らないけれども、たとえば理想の男性のタイプはボビー・ギレスピーなんていう女の子はたくさんいて、そんな話が出ただけで、この子僕に気があるのかなーと思ってしまうのだから男の子のぼんくらさは根が深い。あまつさえ白いスイングトップまで買いに走ったりするのである。ボビーにあやまれ!
さて、二十代の終わりごろに知り合った女の子は、マノエル・デ・オリヴェイラビクトル・エリセがすきというなかなかの強キャラであったけれども、結婚しての暮らしを振り返ってみるに、そういう趣味趣向が現実の生活におよぼす影響というのはかなり限定されている。ごはんを食べながら娘に、遊びながら食べるのやめようよ、ちゃんと前むいて食べさない、なんて口うるさく世話をやきながら、そういえばクストリッツァマラドーナの映画撮ったみたいじゃんと、口の端にのぼるくらいのものである。へー観てみたいねー。観てみたいよねー。以上! ちいさいこどもがいると、ふたりで映画を観に行くなんていうのは、かなりハードルが高いのですよ……。しかも、妻のおなかではもう一人のこどもがすくすく育っているところである。こどもたちが手を離れる時期までオリヴェイラに生きていてくれと願うのは、さすがに無理な注文であろう。
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