3歳のおそれとあこがれ

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娘が3歳になりました。お祝いにあげたオレンジ色のラーニングバイクをいたく気に入って、今週は毎朝6時に起きて公園にいっしょに出かけています。そして老人たちにまじってラジオ体操をする。いままでどんだけ「はやくおきなさい!」ってゆってもぜんぜん起きなかったくせになー。
そんな娘に夜ごと語る話の話。このごろ彼女を熱くさせるのは、迷子になるという状況である。おかあさんが保育園に迎えにきてくれないのでひとりで帰って迷子になる話。そして、ぞうさんやきりんさんやライオンが助けてくれて、おかあさんに無事会えるというハッピーエンディング。あるいは、ディズニーランドでたこやきを買いに行ったおとうさんが戻ってこない話。もちろんこれも、ミッキーマウスやミニーマウスがおとうさんを探してくれて、家族はふたたびめぐり会うのである。娘も僕もディズニーランドに行ったことはなく、ディテールに欠けるうらみはあるけれど(たこやき売ってんのか?)、とにかくひとり取り残されるというシチュエーションは彼女にとってたいそう甘美なものらしいのです。
大人はあまりそういうことで興奮しない。そもそも迷子になるという状況が想像しにくいし、ひとりぼっちという状況は独身者にとってはごくふつうの日常である。代わりに会社の倒産や、健康診断での血中コレステロール異常値、バイクの故障といった不幸を想像してみても、しゅーんとするだけで興奮はしない。
しかし、僕自身がうんと小さかったころのことを思い出すと、たしかに迷子的な不幸へのあこがれの記憶はあるんですね。僕がよくやっていたのは、ふとんのなかでのエア遭難であった。全身をふとんに潜りこませると、外は雪に覆われた冬山なのである。真っ暗な息苦しい空間のなかでけんちゃんはとても心細い。だれも見つけてくれないんだろうな、ぼくがこんなとこにいることなんて。おとうさんやおかあさんにはもう会えないのかもしれない。もぞもぞ体を動かすと、足の先がふとんから出そうになる。いけない! からだが外に出たらそれでおしまいだ! ぎゅっとからだを固く縮こまらせて、ふと気づくと肩にゴム製のへびの玩具が当たっている。あっへびさんもいたのかい。ごめんね、でももう食べものもなにも持ってないんだ。ぼくたちどうなるんだろうねえ……。
いま考えると、この子は悪いクスリでもやっていたんじゃないかという気さえするけれど、いまも昔も世界中の3歳児はこんなもんなのかもしれない。すごいな3歳児。