厄払い2011

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かちょうさんの厄年が終わろうとしています。いろんなことがあった一年だったけれども、じぶんと妻子に限ればおおむね健康で笑って暮らしていました。しかしそんなほんわか家族に厄年の怒りは有頂天、年の瀬が迫るにともなって周囲の道具たちが身代わりになっていきました。スクーターを2週連続で修理に出し、洗濯乾燥機も使用不能になったので出張修理をお願いすることに。そしてCDプレイヤーも不調になったんですけど、もう10年以上使ってるしな……ということで、修理には出さずに新しいの買うことにして攻めの姿勢をアピールです。
もうCDはリッピングだけにしてネットワークプレイヤー環境をつくるかなとも思ったのですが、やはりディスクからの再生も捨てきれず、マランツのM-CR603というCDレシーバを購入しました。1年ほど前のモデルですが、これがなかなかよいですねー。AirPlay対応なのでiPhoneから直で再生出力できるの。あとインターネットラジオもちゃんとしたスピーカーで聴くと新鮮でよいものです。

marantz ネットワークCDレシーバー M-CR603/FN

marantz ネットワークCDレシーバー M-CR603/FN


あ、カメラもちょっと具合悪いんだった。これにはまだがんばってもらうつもりなので修理に出したいのですが、製造会社の状況があれなので二の足を踏んでいるところです。グローバルな視点で考えると、オリンパスのあれも、かちょうさんの厄年の影響かもしれません。すみません。

『ぽかん』2号

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先週末は犬山の温泉に出かけてました。ひとり暮らしを営むおじいちゃん(僕の父)はげましツアーというのを趣旨としつつ、犬山城も楽しみにしていたのだけれど、激しい雨にみまわれて国宝見物どころではありませんでした……。早々に旅館にチェックインしてごろごろ。
そして日曜の夕方に大阪に戻って「おおさか小冊子セッション」というイベントに寄って頂戴したのが、できたての『ぽかん』2号。およそ一年ぶりの刊行ですが、これが1号よりさらにおもしろくなっているので強く推したい次第です。写真を見てもわかるようにページ数も増えてるんですが、それを上回る内容の充実ぶり。特集の「私の大阪地図」を読みながら目を閉じて感嘆することしきり。表紙もいいでしょ。どうぞお手にとってご覧になってみてください。
目次はこちらで見ることができます。→  http://www006.upp.so-net.ne.jp/pokan/backnumber.html

そして誰もいなくなった

おひさしぶりです。

スティーブ・ジョブズが亡くなりましたけど、まあ今年はたくさんの人がいなくなるなと思う。7月の終わりに僕の母もミスター・ジョブズとおなじ病気で亡くなって、寝ずの晩をつとめた夜のタイムラインはミュージシャンとSF作家の死をいたむつぶやきで溢れていたのを思い出します。

会社で仕事をしているときに父から電話がかかってきて、戸惑うような声で、急に具合がわるくなったからこっちにきてくれないかと言われ、とりあえず自宅に戻って不在着信に折り返したときにはもう亡くなっていた。1時間もかからなかったなあ。呆けたきぶんのまま実家へ車で向かって、母のなきがらに対面してから父の話を聞いた。いや、ほんとに急なかんじにわるなってな、半時間前には友だちが買ってきてくれたたこ焼き食べてたんやけど……。そうか、たこ焼き食べてたんか……。文字に起こすと、家族の死をむかえた父子の会話にしてはどうも緊張感が足りない。しかしまあ、現実というのはそんなふうに泣けばいいのか笑えばいいのかよくわからない事態だったりするものです。つうかだいたい笑ってた。結局空き待ちが間に合わなかったけれど、ホスピスの入所申し込みのときも、友だちとランチに出かけたりすることはできるのか訊いたりしてたもんな、あの人。

父がやだやだと言うので喪主をつとめることになったのですが、僕もあれは、できることなら、二度としたくない。おーい、ハンバーガー買ってきてくれよ。え、どうしたの急に。喪主バーガー。というだじゃれを飛ばして妻に白い目で見られるくらい気楽に考えていたけれど、いざ挨拶をするときには声が裏返ってしかたがありません。やだなあ、いいおっさんが子どもみたい。でも子どもだからしょうがないじゃんねと、祭壇の写真に写った母を思い出して、そんなふうに夏の葬儀は終わり、いつのまにか秋が深まりました。

JJのたびだち

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いろんなところへ行くようになりました。
まもなく妻が仕事に戻るため、今週から保育園へ娘たちを送りとどけている。JJの出産休暇に入ってから送り迎えはすべて妻がしてくれていたので、およそ一年ぶりである。JJを自転車に乗せるのはまだ不安なためエルゴで抱っこしてCJを後ろに乗せるという暫定処置、もちろんかちょうさんはスーツを着ており「こいつ気合い入ってんな…」と感じさせている自信はある。
しかし一年ぶりの保育園というのは、なかなか敷居が高いものです。保護者だって知らない顔がずいぶん多い。かちょうさんの意識としては、ひさしぶりの保育園…腕が鳴りやがるぜ!というかんじなのですが、はたから見ればあらあらうふふ、新米パパがたいへんそうというかんじなのかもしれません。ちがう、ちがうんですよ。心の叫びをおさえつつ、もくもくと着替えやおむつを詰め替えるかちょうさんでした。
これはあれかな。再発CDとか買うときに、いやー昔アナログで持ってたけどいま聴けないしCD買い直すわー、二十年前に聴いてたわーこれという顔をしてカウンターに持っていくきもちとおなじだろうか。だれもそんなこと気にしてないよ。

母の日に

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妻にあげる花束を買いに、近所の花屋さんに出かけた。数日前からCJと母の日はどうしようねーという話をしていたんですけど、彼女はテレビドラマでけんたくんがしているのを見た「カーネーションを一輪あげる」という行為が印象深かったらしく、お花をあげたいという結論に落ちついたのであった。もちろんその際には来月の父の日のこともアピールしといたわけですが、CJは父という単語を知らず、お父さんのことだよと教えるところからはじまったのはいささか疲れました。
しかし花束をつくってもらうための適切なディレクションというのは、なかなかむずかしいものではなかろうか。母の日に妻に渡すものというシチュエーションさえ知らせれば、だいたいおまかせでやってくれそうなものですが、ここの花屋はその上でどんなかんじにしましょうかと訊いてくるのだ。華やかとか、落ちついたとか、上品なとか、花束についてのありふれた形容詞がいくつか頭に浮かぶけれど、どうもちがう。一瞬の沈黙ののち、僕の口からは思わぬ言い回しが飛び出していた。ナチュラル系で……。じぶん自身のボキャブラリーにそんな言葉があったことがにわかに信じがたく、茫然としながら花屋のおじさんを見つめたけれども、彼は頓着することなく、はいナチュラル系ねーと手際よく花を選びはじめたのでした。
そんなふうにできあがったのが写真の花束である。これがナチュラル系なのかどうか、僕には判断がつかないけれど、わりとどんなディレクションでも花束は作ってもらえるもんだということは勉強になりました。こんどは荒ぶるかんじでとか試してみたい。

Carpe diem

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きのう、ひさしぶりに写真を撮った。夕闇がおりてくるころにあかりをともした、ふつうの部屋の写真。年をとるといいかんじに鈍感になってきて、じぶんが死なないような気がしてくるけれど(宇野千代化)、それはやっぱり錯覚だよねーと、ときどきわれにかえって考える。今月も考えた。しかし、こういうことを考えても出口はなく、あまり精神衛生上よいものではないのですが、そんなときに、写真はいいなと改めて感じました。これからも、ふつうの暮らしの写真を撮りたいなと思います。

ほめことば

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かちょうさんは、わりと他人のほめ言葉はすなおに受け取ることにしています。おおざっぱにいって、そのほうが気分がよくなるからなのですが、それでも、あんまりそのまま受け取らないほうがよい場面もあるということも心得ています。「このまえ洋服買いに行ったらさー、『お客さまよくお似合いですよ』なんていわれちゃって」などと大まじめな顔で言ったら、相手も困惑することであろう。おなじように、射精産業で「お客さんのよかったァ……」と言われたとしても、そういうことはあまり吹聴するべきではない。
じゃあ、歯科医院でそんなふうに言われたら、どう受け取るべきなのだろうか? 二か月におよぶ奥歯の治療がこの週末で終わったわけなんですが、終了にあたって歯科医がやたらにほめるのであった。かちょうさんの歯はめったにない丈夫な歯ですよ。ほんとにこれまでフッ素塗布とかしてないんですか? つやもあるし、ここまで恵まれた素質の歯はなかなかないんですよ……。そんなこといわれれば悪い気はしないけど、そもそも歯科経験がほとんどないので、営業トークなのか、特にいつわりなく話しているのかの判断がつかないわけです。
そう考えると、ふだん意識することなく行っている、どういったコンテクストでその発話がなされているかという判断も、じつはとても限定された範囲でしか成立していないことがわかります。ちょっと知らない世界だともう通用しない。相手の表情や視線、しぐさで判断できるでしょという人もいるかもしれないですけど、こちとらそこまでリア充ではないのである。もう、このまま布団をひっかぶって寝てしまいたい。あれだよね、その点では、こども相手のコミュニケーションって気楽だと思います。非言語的なメッセージといっても、その層はたかが知れている。そもそも0歳児のほうは、発話そのものがないのである。
まあ、なにが言いたいかというと、歯科医師がなかなか笑顔のかわいい女性だったので、そういうシチュエーションではややもするとメッセージは正しく伝達されないという、古典的な教訓をもって結びとしたいと思います。