フィクションとしての月曜日

うす暗くて申し訳ないが、画像はうちの床の間である。集合住宅の狭小な和室のさらに片隅にひっそりと設けられていて、もちろん建材もちゃちなものであり、とても床の間を背にした家長の威厳を演出できるような代物ではない。しかし妻が無類の床の間好きであるため、狭いながらも書を掛け、砥部焼の角花瓶を飾るなど、それなりに愛着のある空間となっている(ちなみに書は妻の祖母の手によるものである)。
なんでこんな画像をのっけたかというと、「はてな床の間出し」なんていうムーブメントが起こるのを期待してるわけではもちろんなく、教育問題について議論かまびすしい昨今、ほえー僕も一家言もっておかねばなとネット上でいろいろ見てたわけですよ。ちなみにいま“いっかごん”で変換できなくて“一家言”は“いっかげん”であることを初めて知ったわけですが。それでたどり着いたのが教育改革国民会議第1分科会(第4回)配布資料:一人一人が取り組む人間性教育の具体策(委員発言の概要) ていうやつ。今年9月に公表されたもので、そういえばこんなのあったなあと思い出した。その教育改革に関する方策の一節に「団地、マンション等に「床の間」を作る」というのがある。おお、すばらしい。なんと知らないあいだにわが家では教育改革が行われていたのかとほくほくした次第。まだ子どもも生まれてないのにね。
この方策のほかの部分に「 歴史教育を重視する」「 国語における古典の重視」などが見られることからも、床の間作ろうぜという提言を伝統回帰の一環としてとらえる人もいるかもしれない。そいで、こういう思考回路を難じる言説のパターンとして、伝統なんてのはフィクションにすぎないという考え方がある。床の間に関しても、床の間 - Wikipediaに絶好の解説文があるわけです。

江戸時代には、庶民が床の間を造るのは贅沢だとして規制されていたが、明治時代以降になると客間に床の間を造るのが常識になった。

僕たちが日本の伝統として受けとめているような代物の多くは、明治以降の近代という制度=フィクションでしかないのですよ、という例文にみごとに当てはまる。しかし、正直なところ僕としては、この手の意見にあまり魅力を感じなくなっているのも事実です。なるほど、それらがフィクションであることは確かだし、そんな意見を初めて耳にした人のうち何人かは蒙を啓かれる快感を味わえるかもしれない。そしてあいも変わらず、片思いの相手を神格化するのにも似たナイーブさで〈伝統〉を語る人物は少なくないのだから、最低限のリテラシーを獲得してもらうために繰り返し主張しておくこともだいじかもしれない。
でもさー、それゆうたら結局のところ「じゃあなにがフィクションやないのん?」というほうへ話がずれてっちゃうのがよくないですよ。ものごとのフィクション性を暴こうとする人たちは暴いただけでふー満足したとなってしまいがちだけど、それってフィクションやからと指摘された側としては、たとえ納得したとしても、じゃあフィクションじゃないものなんてあるんかいなとなってしまって、その両者の温度差はたいへん不毛ではないかと。僕としてはフィクションという概念を持ち出した側にすべての立証責任が生じるような気がするのですが、そのへんの要請にきちんと応えてくれる人って非常にすくなくないですか? もうこうなったら売り言葉に買い言葉、すべてはフィクションである教とか、フィクションの手触り派とか、不可能としてのフィクション主義とか、事態はさらに混迷を深めていくのであった。